20200813 水道水

 最後にこのブログで記事を書いたのは3年以上前になる。その年の春に心機一転、未整理のままの読ませるわけでもない文章を書く場を設けたのだが、その矢先、諸事情により文章を書くどころではなくなってしまっていたのだった。

 去年度の一年間は、一時はどうなることかと思っていたが、結果的には大学にいたころとはまた違った形で本を読むことができた。ただ、大人になると日常生活で全力疾走をする機会が無くなるのにも似たように、渾身の力でテクストを読む、ということからは少し離れていたのかもしれない。書くことについても、異様な執着を取り戻す、というのでは破滅してしまうのだが、ちょうどいい距離感をもってもう一度取り組み直す、という望みは、ずっと頭にはりついていた。

 オンライン授業や動画作成をすると、自分にはなにができてなにができないのかが、より区別された形で意識される。対面授業では並行して大量の情報を受けとって処理しているのに対して、いま自分がなにをしているのか、ということを落ち着いて反省することができるからだろう。

 そのうえで、書くことについて、もっともっと生々しい感覚、現役感をもって指導がしたい、とでも言っておこうか。そのような外的な状況が整ってきたので、「いまなら」と思って、また書き始めてみようと思う。

  最初は軽いものを、と思って、一般書ではあるが最近とても売れているらしいベストセラーを読んだので、それについて書いてみよう。

 HSP(Highly Sensitive Person、「とても敏感な人」)を、この本では「繊細さん」と呼んでいる。(p. 7) HSPという概念は近年広く浸透しているようにみられ、また、HSPの特徴といったものに私があまりにもよくあてはまるものだから(プライベートで私と親しい人ならわかるはず)、気になっていたのだ。

 ただ他方で、私は浅田彰『逃走論』を読んで以来、「神経症」という概念でそのような気質の問題を捉えてきたので、HSPという概念が喧伝されることについては、「なぜ「神経症」ではなく「HSP」という概念をわざわざ使うのか」といった疑問があった。(←というか、そもそもそういう疑問を解消するには専門書を読むべきだし、もちろん同書には適切な参考文献も挙げられているのだが、そういうことは必要になってからでよい、というのも一つの知恵だろう。)実際、この本の後半部、いわば「自己啓発」パートにおいて紹介されている諸技術は、神経症への対抗策としての「逃走」や「切断」といったキーワードで語られてきたことの範疇の内にあるものだ。

 それでは、HSP神経症との言説の差異をどう捉えればよいのか。

 一つは、神経症が社会構造などのマクロな観点と結びつけて論じられることがらであるのに対して、HSPは個人単位の生得的な性質とされていて、問題が個人化されている、ということだ。「……繊細な人が持つ「繊細さ」は、性格上の課題ではなく、生まれ持った気質の可能性が高い……」(p. 4, 強調原文)、「……エレイン・アーロン博士が行った調査により、生まれつき繊細な人が5人に1人の割合で存在することがわかってきました。」(p. 17, 強調原文)といった記述もあり、あくまで個人単位でどのように工夫して対策をとるか、ということに議論は向かっていくのである。自己責任論に加担しているようでけしからん、とは言わないが、悪い意味でナイーブだな、とは思うところだ。

 もう一つは、(おそらく)神経症は観察される症状として、すなわち行為のレベルにおいて捉えられるものであるのに対して、HSPはもっぱら知覚を問題にしている、ということだ。

 目の前のコップを視界から消すのが難しいように、誰かの気持ちに気づかないこと――気づかないフリをするのではなくて、そもそも気づかずにいること――が、繊細さんにはできません(p. 46, 強調原文)

  この点については、素朴に実践的な意味でHSP概念の有用性がみられて、個人的には好意的に受け止めているところだ。端的に個人差のようなものを積極的に扱うことができるだけでなく、「とても神経症的ではあるが、敏感だというわけではない」というような人は言われてみればたくさんいると思うのだが、そのような人と自分とを区別する観点は、あまり考えたことがないことであった。

 

 この間に読み溜めていた本が若干冊あるので、余裕ができたら書いていくかも。